東京地下ラボ

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04 Prototyping

50年後の箱船シェルターのこどもたちへ

前編

それは、昼の肖像だった。
「ねえ」
ざあざあと空気が照る草原を撫でるように滑空する。草が横たわったり跳ね返ったりするたびにチカチカと幾多もの光の粒が直接眼球を刺した。何度も何度も愛おしいひとのなまえがまっさらな空気にかっさらわれていく。
前をゆくひとが草原を踏みつけてニッコリとこちらを振り返った。汗の滲んだ額が夢のようにきらめく。まるで、わたしたちは五十年前のこどもたちのようだった。

明けない夜はない。
そんな呑気なことは、とっくに全部雨に押し流されて海の藻屑となってしまって久しい。わたしが生まれ育ったのはそんな時代だ。過去の首都圏の巨大な雨水貯水層を再利用して作られたこの 箱船シェルター には永久に太陽は昇らない。
人類は決して怠惰ではなかったが、誰しもが未曽有の大惨事の前では甚だしく無力であった。土砂降りの雨は度々都市部を踏みつけ、災害と復興を繰り返すうちに人々は少しずつ選択肢をもがれていった。最初の内は雨水貯水層の拡張といった従来的な解決法だけでなく、地上に大きなボウルを展開して空中湖を作るだとか、水を素早く原子分解しエネルギー利用するだとか、夢のある話も溢れていたけれど、苦し紛れの人類の展望を豪雨は無慈悲に、丁寧に、微塵にしていった。 豪雨災害の影響は海抜の低い地域や湿地だけでなく全ての国土を脅かした。雨水貯水層でも耐えきれないほどの雨量によって下水道の機能が失われたのである。清潔な飲み水の確保もままならない状況で衛生状態は刻一刻と悪化し病魔が猛威を振るう、下水道システムの壊滅は即ち生活の破綻を意味していた。
そして、最終的に人類は太陽と地を捨てて、地中に籠ることにしたのである。一時的非難を名目としたこの 箱船シェルター に人類が逃げ込んでから20年、まだ長い航海の終わりは暗雲に包まれたままだ。
2054年に産まれたわたしたち152人は大人たちに朝をもたらすことを期待されていた。わたしが物心ついたころにはもうすでに大人たちは自分が地上に舞い戻ることはきっぱり諦め、次世代であるわたしたち「 箱船シェルター の世代」に遺伝子改変されていない「純粋な生命」の種の保存と環境問題の改善をさせるための教育を徹底することに注力していた。わたしたちの生れながらの義務は大分すると二つである。一つは、排泄を通した有機資源の生成により地下都市共同体へ貢献すること。そして、純粋な生命の繁殖のための環境改善に尽力し地球へ奉仕することだ。わたしたち全員が、人口子宮機の中でまどろんでいたときからこうした役目を負っていた。
つまり、わたしたちは選ばれたこどもたちだった。
わたしたちは、きっと、どの時代のどんなに裕福な子どもたちより幸福なこどもたちだっただろう。全員が平等に知恵と手間を費やされていた。わたしたちはみんな同じだった。使命と運命すらも共有したきょうだいだった。
わたしたちは既に選択されたこどもたちだった。
それは人肌のように柔らかく暖かくて、押しつぶされそうな程に重かった。
まあ、別に現実がどうにもならなかったことに、特段わたしは恨みを感じてはいない。むしろ人類は上手く逃げた方なのだろうと称えてさえいる。きっと、わたしたちの現在は最善なのだ。だって大人がいるし、共同体が機能してるし、かぞくがいる。少なくともわたしたちは生まれた時から暖かい所にいた。それが、計り知れない程の祝福と努力でなければ一体何なのだというのだろうか。
わたしは、誰かが一緒に泣いてくれるのならばずっと真夜中でも良かった。

すべての人々が液状であればいいのに、と思ったことはないだろうか。
まず、わたしたちは完全なる液体になる。そして、混ざりあって完全に一つのものになる。きっとそれはすばらしいことでしょう?すべての喜びと痛みは共有され均質化される。誰も一人で悲しみにくれたり病的に喜びを貪ることもないのだ。そういうものを幸せと呼ばないというのなら、本当の幸せなんてものはきっとちっぽけでつまらないものであるに違いない。
わたしが好きな2020年代の作品には度々三大欲求という概念が引用される。食欲に睡眠欲、あと最も大袈裟に取り扱われる性欲のことを指す。わたしが思うに、結局20年代の人々が性交渉を何よりも重視したのは、無論人口子宮が開発されていなかったからというのもあるだろうが、何より他者と何かを分かち合いたいという欲求が半世紀前の人々にだって強く備わっていたという証拠なのではないだろうか。
わたしは誰しもと一緒になりたい。
わたしの三大欲求は一緒に生きたい、一緒に死にたい、そして残る一番大きな望みは全てのひとと完全に同化してしまうことなのだ。
だからわたしは、全力をもって社会全体の秩序を守り、そしてその割にはすぐさま集団圧力に負けて悪趣味なことをする、いわゆる中身のない偽善者でいることが一番心地よいのである。
人生で五千回目の自他同一の素晴らしさについての講義がわたしの脳内で着々と進められているとき、時刻は正午だった。教授のわたしは、いつも照明が節電されてるせいで異様に薄暗いg塔の廊下を歩きながら滔々と心に語りかける。傍聴している生徒はわたしただ一人、しかもコンタクト・フォンを瞳孔でぐりぐりと操作している。生徒のわたしは頭の片隅だけで器用に学習しているつもりになりながらチャットルームをチェックする。お馴染みのルームに入ると、やはりお馴染みのメンツが集まっていた。
お決まりの入室の挨拶をするわたしのアバターの方に猫耳をピコピコさせながら『でいじー♡』が駆け寄ってくる。 『ねぇねぇ、好きな人っている?』
『でいじー♡』が大きな鈴をちりんとならせてニンマリと笑う。「本気じゃないですよ、冗談で言ってるんですよ」という配慮の意思表示である。
無論このチャットルームにいる三人全員が、冗談でも本人の了解を得ない上での三者への好意の表明が現在の社会道徳から大きく外れた行為だとはわかってはいたが、敢えてそれを指摘しなかった。半世紀前の倫理観で構成されたコンテンツを愛好するわたしたちにとって、自身の社会性とエンタメ欲求をすり合わせるためにこうした非道徳的なジョークを交わすことが時たま必要だった。倫理的批評を突き詰めることも必要なことだが、それだけでは本当にうんざりしてしまう、こんなにも面白いのにどうしても非道徳的なコンテンツに、こんなにも非道徳的なものを楽しんでしまう自分に。だから時々わたしたちはコンテンツの「非道徳的」をジョークとして嘲笑うことで、明るくエンタメを消費しながら現代の倫理感を称賛していかなければならなかった。20年代のコミックカルチャーだけに限らず、あらゆる古いコンテンツを愛してしまったものたちが背負わざるを得ない性である。というかそもそも共同体維持と地球環境改善のために学ぶべきことが山積みであるこどもたちが娯楽に現を抜かすこと自体よろしくはないのだ。常にわたしたちは耳当たりの良いエクスキューズに飢えていた。
『なるほど、恋バナってやつだね』
『Tik-5』がくいッとメガネを上げる。眼科医療が発展した今日日では、こういった20年代カルチャー愛好家が集うヴァーチャルチャットルームかアニメーションアーカイブくらいでしかお目にかかれないモーションだ。
『そぉ~、やってみたかったの!』
『でいじー♡』が愛らしく身をくねらせると、大きな鈴の刻むリズムに合わせてふわふわしたフリルスカートとしっぽが揺れた。さすが『でいじー♡』アバターモーションのクォリティーが高い。本人もわたしたちも敢えて言及することはなかったが、ちょっとしたふるまいやアバターのクォリティーから『でいじー♡』がわたしたち二人よりも頭一つとびぬけて優秀でスコアが高いことは明らかだった。
『僕は好きなキャラとかあんまり作らないタイプなんだけど』
『だから~、恋バナだって!「ヒト」じゃなきゃだめでしょ!「推し語り」とは別なのっ!』
シャーっと『でいじー♡』は『tik-5』に威嚇する。
『ね~、つねちゃんはいないの?』
語り掛けられ、わたしは素早く視線でキーボードをタップし、メッセージを送る。もちろんアバター動作の入力も忘れない。排泄物の質や勉強の成績は並みだが、コンタクト・フォンの操作では誰にも負ける気がしなかった。
『佐々木五番とか結構イイじゃん』
なけなしのポイントをはたいて作ったわたしの学ランを着たアバターはスマホで恥ずかし気に口許を隠しながらぼそぼそとしゃべる。計算通りにカワイイ。学内の廊下を歩きながら入力したにしては上出来ではないか。
『えーっ!えーっ!いいじゃん、いいじゃん、告っちゃいなよ~!!』
『でいじー♡』が両手でふんわりと紅潮した頬を隠しながらピョンピョン跳ねた。
階級主義の象徴として消し去られたメイド服と制服、眼科医療の発展のせいで生産されなくなったメガネ、それにコンタクトレンズ程の大きさで角膜の上から装着し瞳孔の動きだけで操作できるコンタクト・フォンが開発されたため市場から消えて行ったスマートフォン、そして極めつけは現実恋愛。わたしたちはとことん「要らなくなった」ものを愛していた。故にスコアで得たポイントの殆どを日用品以外のアーカイブ視聴権限のために費やしていた。
そこまでは同じだけれども、二人はファンタジーとして、非現実への接続点としてそれらを愛している。わたしとは真逆だ。わたしは半世紀前の人々とわたしたちとの共通点を無理やりにでも見出すことにとり付かれていた。どれだけ状況が異なっても、結局は人間は同質の存在であることを確認するごとに、わたしの同化欲求は少し満たされ更に飢えていった。おそらくわたしたち三人は根本的な面で違っていたし、一般的な交友関係の域を出ずに現実での接触も皆無だったが、紛れもなく長きにわたって同じ時間を共有してきた親友だった。
『ヴァーチャル上のネームじゃなくて社会的地位の付与された氏名を言うのはさすがに露悪的すぎるのでは?』
盛り上がるわたしたちとの対比のように『tik-5』は肩をすくめてため息をついた。
わたしはぎくりとしながら、落ち着いて、さも平生であるかのようにチャットを入力する。ここで本心がバレて、貴重な同好の士を失うわけにはいかない。
『そういう批判なんだよ。20年代のコンテンツにありがちな階級至上主義への批判としてのブラックジョークじゃないか。うん、でもたしかにティックを不愉快にさせてしまったのだし、反省するよ。笑えなきゃジョークじゃない』 真っ赤な嘘である。わたしは本当に佐々木五番が好きだった。佐々木五番は、私の太陽だった。
太陽に出会う前、わたしがこの安全な揺籃の中で感じていたのは紛れもない恐怖と孤独だった。
この地下都市で、産まれた時からわたしは「わたしたち」であり、わたしたちは「わたし」であった。だってわたしたちは、みんな同じ過去と運命を共有した選ばれた存在なのだから、大人に選ばれたこどもたちなのだから。なのにわたしはどうもがいても個体なのだ、一人っきりなのだ。そんな当然のことがひどく苦しかった。なぜ一緒になれないのだろうか。どうしてこんなにも運命を同じくしたひとたちに囲まれているのに、自身の運命には一人っきりで戦わねばならないのだろうか。誰もが独りぼっちの世界に産まれたことをどうやって受け止めろというのだろうか。孤独を慰めようとコミュニケーションを重ねるほどに孤独は反って如実になる。一心同体のきょうだいたちとわたしは、なぜ、別たれているのか。なぜ、決定的に別たれているのだと自分は疑いようもなく確信してしまうのか。このような問いの前で、わたしは「わたしたち」ではなかった。どうしようもなく独りぼっちで、悲鳴の上げ方も解らないまま恐怖にのたうちまわっていた。わたしが太陽を見る日が来ても、きっとこの夜は永遠に明けないだろう。そういう諦念が心臓の裏にこびりついてきた時だった。
今年、2070年に、私は太陽と出会った。
わたしの太陽は突如として昇り、わたしを無差別に微笑みかけるように照らしたのである。
太陽は人間の形をしていて、佐々木五番という氏名で学校に通っていた。
あのとき出会った十五才の佐々木五番だけがわたしの痛みを知っていた。佐々木五番だけがわたしと同じ痛みを抱えて泣いていた。孤高に佇む佐々木五番を一目見て、わたしは何故だか急にそんな気がして、歓喜で吐きそうになりながら心の中で佐々木五番を何度も何度も抱きしめた。このひとがわたしの探していたひとだったんだ、一緒になろう、一緒になろう。けれども佐々木五番は夢想の中でもわたしを抱き返さなかった。一目ぼれで、初恋で、強烈な片想いだった。 勿論わたしとしても相手の社会的地位を知った上での現実恋愛の倫理的問題については十分承知している。わたしは何時からこんなにも階級主義的になってしまったのだろうかと、わたし自身随分思い悩んだ。わたしは20年代カルチャーを愛好しているが、過去のルッキズムと階級差別的現実恋愛には批判的であったはずだ。ああ、せめて恋ではなく信仰であってほしいと、そう願ってしまう時点でどうしようもなく恋だったのだろう。気づけばわたしは受け止めることしかできないところに到着していた。
かといって20年代アニメよろしく佐々木五番に勇気を振り絞って話しかけるだとか、そういったアプローチをするわけではなかった。冗談交じりにクローズチャットで表明するのが限界である。わたしは比較的倫理と常識を重んじる傾向があるこどもなのだ。ヴァーチャル上ではなく社会的地位がお互い明らかな状態で事務用事以外で話し掛け友好関係をもとうなどと企てるハラスメント的な行動を易々と実行するなどありえないだろう。密かに情を抱きながら自発的に関わり合うことなく遠目ですれ違う姿だけを胸に大切に収めるというのがわたしが佐々木五番に捧げられる唯一の誠意であり愛情だ。手を握ってほしいとか、氏名だけでなく「なまえ」を教えてくれたらとか、最少共同体申請に同意してもらって「かぞく」になってほしいとか、そういうことを……まあ、妄想するのは仕方ないことだが、実行に移したいなどという加害的欲求に変換してしまってはいけないのだ、決して。そして、階級主義者的な嗜好を持っていることを友人に気取られるのもベターではない。
『いや、僕はそもそも倫理的にマズいものをネタとして消費してしまうことから忌避しているのだけれど……20年代の階級主義とハラスメント型性愛嗜好は、カルチャーを愛している僕たちだからこそ真剣に批判するべきだ。それが最低限の、現代の社会構成員としてとるべき態度だと思う』
『まぁまぁ、てぃ~ちゃん文化の実践が批評においては重要とかなんとか言ってたじゃん。これも文化の実践的な?なんとかでしょ、多分』
『多分……?』
『Tik-5』の眉間に皺が寄りメガネが鋭く光った。
『絶対!絶対にゃ!』
『そうだよ!実践実践!』
「冗談」を貫き通すために、あえてお道化てわたしも『でいじー♡』に加勢すると、『tik-5』はゆくっりとため息を吐き腕を組む。このポーズがプライドの高い『tik-5』なりの降参のポーズだった。
『えー、だけど、佐々木さんってえ悪い噂しか聞かないけどなー。やめときなよー』
『Tik-5』はらしくもなく典型的な「ぶりっこ」の仕草で「台詞」を棒読みする。もちろんわたしと『でいじー♡』は笑い転げた。『tik-5』はふっきれると意外にノリが良いやつなのだ。
『な、何、その悪い噂って』
『でいじー♡』がにゃはははと笑い悶えながら訪ねると、『tik-5』は淡白に『し尿バイト』と呟くので、わたしは終に腹を抱えて笑うアバター動作を入力する。これはわたしにとっての「まいった」だった。 『全っ然20年代っぽくねぇ~!』
20年代においてし尿はあくまでも汚物である。今でこそ消化機能が健康なわたしたちのし尿は貴重な有機資源かつ人類の共有財産であるとして大事に大事に利用されており、個人が個人および機関に対してし尿を私的利用または物々交換の対象とする、いわゆる「し尿バイト」は固く禁じられているが、20年代にはきっと理解されない慣習であろう。わたしたちは度々20年代のルッキズムと階級主義に眉を顰めるが、逆に糞尿を尊ぶわたしたちの社会的態度も20年代の人たちにとってはとても理解できないことなのかもしれないと思うとなんだかほっとするのは何故だろうか。常識というものの脆さをつまびらかにして現代の社会規範に反した想いに飲み込まれつつある自分を正当化したいからなのか、それとも人類の適応力に希望を抱いているのだろうか。どちらにせよわたしのちっぽけな虚しさは変わらない気がして深く考えるのは止めた。
『でもぉ、ほんとうにそういう噂あるよね~佐々木さんがし尿バイトしてるんじゃないかっていう』
「えっ」
『でいじー♡』のつぶやきに、驚いて肉声が出てしまった。どう考えても冗談だろうに、やはり佐々木五番の関係する話題ではどうも高次脳が正常に機能しない気がする。
『今の時代に学内の噂とかあるのか、令和じゃあるまいし』
『偶然佐々木さんが管理員に囲まれてるところ見ちゃって、何か不正をしたんじゃないかーって聞かれてたよ~』
管理員の直接聴取だって?
わたしは失望よりも漠然とした怒りと焦りに飲まれていた。わたしの中で、佐々木五番はどれだけのことをしたって気高くあることを許されるはずの存在だった。それが不当に揺るがされている気がしてならなかったのだ。ありもしない悪意に怯えていた。
『ああ、それなら僕もされたよ。文化的実践のためにコンタクト・フォンを家に置いて一時間くらい散歩してたら管理員に事前通告なしで聴取された』
『何やってんのてぃ~ちゃん!』
『良く考えてもみ給えよ。20年代の創作者たちはコンタクト・フォンがない状態で生活し、物語を創作してきたんだ。20年代の創作の批評のためには、そういった当時の実感を伴う世界観を観察することが重要だとは思わないかい』 『つまりさあ、てぃ~ちゃん程のオタクじゃなきゃコンタクト・フォンなしで長時間活動するなんて疚しいことがあるって証拠じゃん、どっちにしろだにゃあ』
『うーん確かに、学校の近くまで監視機が設置され始めてるって報道が最近あったことも鑑みると意外と犯人は身近にいたりするのだろうか』
身をすくませながら、沈黙を怪しまれないようにチャットを打つ。
『犯人って、それこそ令和じゃないんだし』
『昔ならともかく1500人規模の 箱船シェルター じゃあねぇ~違反予測AIもあるからだいたい実行前にカウンセリングされるから、そもそも犯罪なんて起こりようもないけどお、でも本当にし尿バイトしてるなら、それって共有財産の損失に加担したってことだし、こどもでも「犯人」みたいに隔離されたりするのかにゃあ?まあ、こんなこと話したって楽しくもないし~他のお話しよおよ~』
共有財産の損失に加担。隔離。それぞれのワードが頭の中で歪に反響し合う。くらくらしながらルームの音声を下げた。
「あ……」
コツコツと廊下に等間隔の足音が聞こえる。現実の、足音だ。チャットやネットサーフィンもせずにただまっすぐに前を見つめて進んでいくその姿は佐々木五番その人だった。
何故ここにいるのか。
わたしは今、g塔にいるが、佐々木五番はたいてい月曜の四限と五限の間は照明が一番明るいc塔の大きな窓のすぐそばの席に着席して、この真っすぐな視線をじっとボードに打ち付けているはずだった。
──疚しいことがあるって証拠じゃん──
わたしは立ち止まってじっとすぐ前に迫った佐々木五番を見つめる。佐々木五番は一切頓着せずにただ真っすぐに進んでいく。そのさまは何か「目的」があるかのようだった。
わたしは気づいたときにはルームを退室し駈け出していた。ありふれた退室の言い訳を用意する余裕はあったが、それ以外の未来に対する心構えは皆無に等しかった。思考が完結しないままに行動し、肉声を張り上げる。「待って!」。待って、沈まないで欲しい。こんな馬鹿々々しいところで、こんなあっけないことで、太陽が沈んで良いと、佐々木五番は思うのですか?ミュージカルのように美しくそう怒鳴り散らせればどんなにいいだろう。しかしわたしは一般的なこどもと同じように、プレゼンテーションや協同ワークはできても、私的な感情表現はヴァーチャル上でしかなかなかしようとは思わない性質なのだ。とにもかくにも思考と舌がもつれあってがんじがらめにされていた。
「なんでしょうか、わたしに何か要件が?」
ゆっくりと佐々木五番は問いかける。瑞々しい瞬きには品定めをするような色が滲んでいた。この時点で通報ではなく困惑で済ませてくれるのはなかなか稀有なことだろう。それともやはり佐々木五番には管理局を頼るわけにはいかない事情があるのか?だとしたら、わたしはなんとしてでも阻止しなくてはならない。「あの……」。なんとか、そう、とにかくなんとかするのだ。何でもいいから、なにか、阻止できそうなことを言ったりしたりしなければ。
わたしは勇気を振り絞って叫んだ。ここで行動しなければ何もかもが終わってしまう。
「こっここここ、これからは一生わたしと一緒にトイレにいってください!」
「なんで?」
なんででしょうね。佐々木五番の反応は言ったそばから自分の発言に羞恥し悶えるわたしの乱れた思考を非常に端的に表したものでしかなく、質問されても共感する以外わたしにはできやしない。だが、素直にそうしたところで、佐々木五番はわたしを捨て置いてスタスタと目的の場所へと身を沈めていくのみである。わたしには返答の義務が生じていた、他ならぬわたし自身の歪んだ想像力によって。
「好きだから……」
苦し紛れに答えると、佐々木五番はぎゃはははと豪快に笑い声をあげた。
わたしの狂気じみた態度に笑っているのか、矛盾しかない言動に笑っているのか、この複雑な事故のようなシチュエーション自体に面白味を感じているのか。ただ一つ、わたしに残された残り少ない名誉のために一生涯詮索しないでおくのがきっと賢い生き方であることだけは明らかだ。
わたしが傷心を癒すためにコンタクト・フォンで20年代のお気に入りのイラストフォルダをぼんやりと眺めていると、何かが服越しに腕にあたる。実写ウィンドウをメイン表示にすると、佐々木五番がわたしの腕をつかんでいた。
「じゃ、行こうよ」
いきなり佐々木五番は、まるでチャットの常連どうしような気軽な口調で語りだした。
「えっ?」
「今から行こうと思ってたんだよね、一緒に来なよ……えっと、山田一番だよね?」
まあ20年代生まれだったら「どうしてわたしの氏名を……?」とひとしきり勘違いすることができただろうが、わたしは所詮 箱船シェルター 世代である。こどもは152人しかいないし全員同い年で教育課程も同じだから、現実のコミュニケーションが疎かになろうと自ずとみんな互いを記憶していた。
「あっは、はい、え、あの、でもその」
願ったり叶ったりではあるが、その、現実での身体接触と肉声会話ってつまり、「そういう仲」って捉えられるのだが、良いのか?いや、さすがに、これは、こういうのはせめてカップルルーム制作して三か月くらい互いに親交を深めてからやるべきだと思う。
戸惑うわたしに、窮鼠を慈しむ猫のように佐々木五番は優しく微笑む。
「あのさ、自分がどういう行いをしたか解ってるのかな?」
佐々木五番はすっと自分のコンタクト・フォンを指さす。わたしのハラスメント的行為は既に佐々木五番のコンタクト・フォンに記録されている。
「黙って言うこと聞けよ」佐々木五番は無邪気に柔らかな頬にえくぼを刻んだ。
やっぱり、太陽というものは、どんなことをしていたって燃えるように美しいものなのだな。
脅迫行為を前にして場違いな感動があたり一面に咲いていた。何もかもがめちゃくちゃだ。わたしはもう正気ではないのかもしれない。通告されるべきは、隔離されるべきは、もしかしたら、わたしなのかもしれない、と、湯だった皮質が嘆いていた。

東洋大学 金雪芽

2002年生まれ。母語は日本語。大学で東洋文化を学ぶ側ら、小説やグラフィックデザインなど幅広い形式で創作活動をしている。

東京地下ラボ事務局 tokyogesuido@prk.co.jp